打ち水の涼やかなる夕闇時も、尚暑気を孕み続けるのが夏の宵。日が落ちかける分だけ多少過ごしやすくなった街道を、ひた歩いていた時のことだ。
 あれはお前が家の、夷守神社の帰途だったと記憶している。借りた本を返すべく其方を訪ねたが生憎本人が不在でな。重たい書籍を背負い直して、来た道を儘引き返したんだ。
 無駄足を踏んだだけに、或の日の記憶はより鮮明に残っているぞ。俺は苦々しい事ほど能々覚えている質だ。
 訪ね損をした為か、身体も益々疲れていてな。傍から見ても俺の足取りは重かったことだろうよ。汗みずくの肌に貼りつく着物の煩わしさまで覚えている。因みにお前、あの日は何をしていたんだ。
 まあいい。だからこそ皮肉にも、斯うして出来事の仔細まで覚えているのは、お前にとっても喜ばしいことだろう。あの時俺は確かにお前の家から、来た道を正確に辿って帰った。その筈なんだ。
 それなのに、あれは此処から丁度五軒先の小路を曲がった所だな。彼処で妙な道に至ってしまった。否、俺の方から勝手に迷い込んだと言うべきか。
 溜息吐きつつ曲がった所で、先ず目に飛び込んできたのが、道だ。それも人が優に四人は並べる。がらんどうの一本道。本来在るべき道よりもずっと広々と殺風景で、俺は一瞬面食らった。
 道の両端もまた異様だったな。全く同じ積み方をした瓦壁が、まるで鏡合わせでもしたかのように規則正しくずっと奥まで続いている。
 ○○通り上ル、といった所で左右対称の果て無い一本道が長く伸びている。普通であれば大路に行き当たるか家宅に突き当たる、そういう路地でこれは明らかに異常だろう。
 道の中央に男が居た。一人でぽつねんと立って、彼は空を見上げていた。状況からして寂寞たるものだが、彼自身の纏う雰囲気がまた何とも虚無や孤独を感じさせる。あの時ばかりは、肌で感じる空気も冷えていた。
 俺が姿を見せた所で、男は直ぐに此方へ顔を向けた。俺を射通す瞳は澄んだものだが、云い様のない空漠を抱く目をしていたな。青灰の、穏やかすぎて輝きの薄い眼差しだ。
「あんた、迷い人か」
 うっそりと、彼は口先だけで笑った。「生きた人が此処に来るのは珍しい」と。
 おい、話の腰を折るな。
 あれが狐狸妖怪の類で無かったのは自信を持って断言できる。俺の目に何も異様は映らなかった。それに、彼は俺の前で莨を出して呑んでみせたぞ。一部を除けば彼奴等は火を厭うと、そう言ったのはお前だろう。
 まあ、真っ当に人であったと言えるかどうかは、難しい。
「人を想って道を踏み出す、その気が強いと皆此処に辿り着いちまうんだ。悪かったな」
 なにせ男は紫煙を燻らせながら、こう続けた。
「送るよ。家は何処だ」
 今度は何だ。きちんと断ったに決まっているだろう。自分で帰れると。お前どれだけ心配性なんだ。
「一つ目の角を曲がれば、元の道に戻れる筈だ。他の道は選ぶなよ。特にその、後七夕が目立つ道は絶対駄目だ」
 後七夕――そう、一等星がいつの間にか昇って、辺りは満点の星月夜になっていた。俺の前方、男が立つ背は確かに一本道しか無いが、俺の後方に幾つか分かれ道があったんだ。
 夜風に吹かれて幾本の葵が揺れていた。前方は無味乾燥だが、背後は随分情緒溢れる道ではないか。そう思って俺は呆れたよ。
 さて、これで俺は曲がり角を引き返せば、元の道に帰ることができる。だが呆気ない別れを告げてしまうのも何だと思ってな。最後に一言だけ声を掛けた。
「貴方は此処で、一体何をしているんだ」と。
 大方、この厄介な惑わせ道の守り番でもしているのだと予測していた。だって、其の場の事を熟知している様子だったしな。
 それに、あの格好の状況で俺に危害が何も無かった。少なくとも彼自身に、俺を含めて人に怪異をもたらす要素があるとは考えにくかった。男も俺と同様、道に迷い込んだという線は、薄い。と言うか、無いだろう。帰り方を知っているのだから。
 男は暫く此方を見つめていた。空漠の瞳が茫洋と揺れていた。不意に男は力なく莨を地面に落とすと、此方を見たまま、ゆっくりと足で踏んで揉み消した。
 繊維がひしゃげて擦り切れる、何とも後味の悪い音がしたよ。
「彼女を、待ってる」
「彼女が俺を想って、此処に迷いこんでくれるのをおれはずっとまっている」
 いつのあいつでもいいからこんどこそちゃんとてをはなさないでつれていく――抑揚の無い口調で平坦に彼は言った。視線が揺蕩う。ゆらゆらと灰青の瞳が追いかけているのは、俺の背後。
 振り返った俺の目鼻の先で、葵の花が首をもたげて揺れていた。
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