古の都は京市中。天皇遷都により幾分寂れたと音には聞くが、我が古里より華やいでいる事は違い無い。煉瓦造りの西洋建築、街中を走る電気鉄道。路行く民の佇まいも随所欧化に浸りつつ在る。かと思えば時代の先端物が乱立する景色にふと、人工水路の袂には幾世を見守る古桜。
 永年続く自然をこそ大切に扱うのが心憎くも好ましい。千年の政が跡地には、今も丹念に手入れを施す。観光、遊覧に名高い地だが、人は皆、此の新旧混沌する夢現の観覧を楽しみに訪れている気さえする。
 其う言う訳で、此処は今以て弥栄の都だ。
 斯様な文化繁栄の地で学問を志すに至れた事を、心から嬉しく思う。然らばこそ、我が四年に渡る学生の日々を徒然なる草紙に書す。

 とは云え此れは、向学に充てた手記では無い。高尚な勉学を長々しく弁舌するは、教授様だけで充分だろう。
 此処に記すは私が在学の内に体感した、妖し出来事の数々である。


 己の事を記述し損ねた。
 出自は会津若松の田舎から、進学に合わせて上洛した。正しく都上りの風流識らずであろうが、机に齧り付いて諳んじる教養ばかりは、苦学を呈して身に付けた。
 一つ断りを入れておくが、其の様に頭デッカチな根詰めをし過ぎた為に、幻覚を見て妄言を吐いている訳では無い。と、思いたい。頗る私は健康体も良い所である。健脚が専らの取り柄と云える。
 幼き頃から私は妖魔神霊怪異の類が「視えて」いた。磐梯の腕に抱かれた山々の自然に囲まれて、其処な椿の根元に猫又、墓石には一昨年に黄泉路へ向かった婆の影。其う云った珍妙奇天烈は日常で、また理解者の居ない事を常としていた。
 其れが、此方に来て見たらどうだ、私と同じく「視」て、更には「解し」、また「分かつ」者の如何にも多いこと。彼等は日々の会話で至極当然と、恰も本日の天気を話すが如く、自らが見聞きし怪異変事の話をする。
 亦妖物達の人社会への順応たるや、瞠目せざるを得ず。常時趣向を凝らして我々の暮らしに馴染み、苦楽生活を共に生き、時代のうねりを越えている。
 彼等は確かに「生きて」或は「活きて」いるのだ。

 前置きが長くなった上、話が迷走を極めた。
 要は此の手記、私、須賀川七弥が古都暮らしで体験をした、所謂怪異譚である。
 拙い筆ながら、永年の都の荘厳さ、其処に潜む妖しくも美しき異様の数々を記し留めておけたらと思う。


大正xx年  弥生 十日 須賀川七弥 記ス
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